まだカツオの体温が残るうちに、苦しそうに歪んでいた体勢を整え、よだれで汚れた口や手足を丁寧に拭いてやりました。猫は元来きれい好きな動物なのに、毛づくろいすらままならい状態はさぞかし不本意だったに違いないのです。
カツオの12年の猫生で、初めてとなる ”最初で最後のブラッシング” を、しているうちに、
男子にしては小柄だったカツオのその小さな顔や手足が、次第に冷たくなっていくのがとてつもなく切なかったです。今はまだ苦しいですが、その時間もまたいつか記憶に残る想い出になるのだと思っています。
スケジュールの都合で、葬儀は3日後となりました。せっかくの最後の時間を泣いてばかりいるわけには行きません。せめて、カツオの体とお別れするまでに何かできないだろうかと必死に考えました。
まずは、横たわっている猫ベッドごと私の布団にのせて、生きている間は触らせてくれなかったその柔らかな被毛をたくさん撫でて初めての添い寝をしました。しかし、真夏でもあったことから大量の保冷剤で冷やされた体が、もうこの世の者ではないことを物語っていて更に悲しくもありました。
また、茶トラのカツオに似合うお花で賑やかに送ろうと考えて、小夏という小さな品種のひまわりを用意し、伝えきれなかった感謝の気持ちをメッセージカードに書いて添えました。
最期は何日も食べられずに逝ったので沢山のごはんやマタタビ、ちゅーるやかつお節、お気に入りだった猫じゃらしやネズミのおもちゃも持たせることにしました。
このように、荼毘に伏すまでの時間を思いがけずゆっくりと過ごせたことは、私にとって重要な 「喪の作業」の一つになったと感じています。思えば、歴代の子達も慌てないでもう少しゆっくり一緒に過ごせば良かったなぁと、今更ながらに悔やみました。
しかも、カツオは私の夏休み中に旅立ったので、昼夜を問わず傍にいて看取る事ができたのも救いでした。不思議な事に我が家の子たちは、それぞれ成人の日、GW、元旦、日曜日、そして夏休みに旅立っているのです。これは、彼らからの最期のギフトなのだと確信しています。
カツオにとって虐待はもちろん不幸な経験ではあるけれど、触れなくてガッカリなのは人間側の都合であって、決して不憫でも可哀そうな子でも、困った子でもないのです。
「触れないから可愛くない」「懐かないからもう要らない」
世の中にはそんな理由で捨てたり保健所に持ち込んだりする身勝手な人間が後を絶ちません。
12年前、公園の駐車場に段ボールのフタをされた状態で置き去りにされていたカツオ。
幸い、カツオの場合は捨てられたことで最愛のタマに出会うことができ、更には、そんな彼らと私が出会ったことは必然だったのだと思います。
そして、最期まで堂々と家庭内野良という尊厳を貫いて生き抜いたカツオには「そこに、生きていてくれるだけで愛おしいと思える」という、大切なことを教えてもらいました。
今は、タマと一緒にカツオに思いを馳せています。
カッツ、また逢う日まで!!
― 完
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