よく通る道にペットの斎場があるのですが、その前を通る時はいつも「車が入っていないといいなぁ」と、ドキドキしながら見てしまいます。しかし、このお正月に前を通った時も、残念ながら車が1台とまっていました。初詣に向かう沢山の人々がこの道を歩いている今、この建物の中でどうしようもなく深い悲しみに覆われている方がいるのだと思うと、切ない気持ちになってしましました。
なぜなら5年前、かく言う私も元旦に愛猫が息を引き取り、泣きながら斎場に問い合わせて、まだ松の内だった3日に火葬していただいたことがあるからです。このように、病や死というものはタイミングを選ばない情け容赦のないものなのです。クリスマスやお正月などの世間が浮かれムードやお祝いムードの真っ只中にあるほど、まるで自分だけが世の中から切り離されたような、絶望的な悲しい気持ちになってしまいます。
思い起こせば初代の猫は成人の日の祝日、2代目の子はゴールデンウィークの最終日に。そして、3匹目の子は元旦と、我が家はなぜか祝日や祭日に重なり、まるでどの猫も私が家にいるときを待っていたかのように旅立っています。世間とのムードのギャップは感じましたが、おかげでしっかり最後のお別れの時間を持つことができたとも言えます。
4匹目の子に至っては、私が母の初七日を終えて東京に戻った翌日からの入院。そして、その後にお別れとなってしまいます。こんなことってあるのかな、立て続けになんという無情な仕打ちなんだろうと、その時は容赦のない運命を心底恨めしく思いました。
しかし、母の一連の儀式が終わるまではさすがに帰ってくるわけにはいかない状況だったわけですから、きっと私が戻ってくるまで懸命に頑張って待っていてくれたのだと思います。もしも、私が実家にいる間に旅立ってしまっていたら・・・どうにもやり場のない無念さに、ずっと苦しむ事になっていたに違いありません。悲しい事に変わりはありませんが、せめてもの天の計らいだったのかもしれませんね。
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