やるだけの事はやったんだし、仕方がないよ。運命だったのだ。そう慰められてきましたし、私もそうやって自分に言い聞かせて諦めていくしかないと思っていました。後悔なんて何の役にも立たないと。
「そもそもこの手術って本当に必要だったのだろうか!?」先日、母が亡くなった時に兄から出た言葉です。もちろん、何度もドクターと相談して出してきた結果です。私だけ遠く離れていたので全ては父と兄が決断し、直接ドクターとコミュニケーションをしている彼らが納得した上での手術だと思っていたので、その発言には内心驚きました。むしろ手術に懐疑的だったのは又聞きの情報しかない私の方でした。そして、その度に私の不安を一つ一つ払拭するように説明してくれたのも兄だったからです。
しかし、この発言により最悪の結果になってしまった今回の事態に対して兄が後悔と自責の念に駆られているのだとその時初めて知りました。つまり、こんな風に一見転嫁とも思える他を責める感情や誰かに対する怒りという感情は、無意識にその間すべての責めを自分ひとりで背負わずに済むという裏返しでもあるからです。
また、これは私自身の感覚なのですが、一見停滞しているように見える後悔という感情も実は救いになっているような気がしています。
「あの時もっとこうしていれば」という言葉の先に続くのは(そうすればもっと生きられた)という希望です。「もうどうやったって亡くなってたよ、どうしようもなかった。」という抗えない絶望的な悲観より、たとえ叶わない希望だとわかっていても「あの時こうしていたら、まだ一緒にいられたかな」という夢があるように思うのです。だってかけがえのない命が初めから亡くなる運命だったなんて悲しすぎるから。
人の心はそう簡単に割り切れるものではありません。他人からするといつまでも後悔をしているように見えても、実はそんな感情を味わっているのかもしれませんね。こうやって複雑な感情と付き合いながらゆっくり癒える場合もあるのです。
(Photo by チョコラテさん)
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