なぜ私だけ? – 怒りや不当感について

 悲しみ(悲嘆感情)にはプロセスがあると前回お話しました。その段階のひとつである怒りや不当感に注目してみます。悲嘆のどん底にいるときはショックと放心で周りに目を向ける余裕がなく、文字通り悲しみに明け暮れるため怒る気力すらないものです。

 私は今年5月に母を亡くしました。初七日を終えて1週間後に実家から戻ると今度は愛猫が急遽入院となり6月に亡くなりました。度重なるショックのあまり、周囲から何を言われても、自分自身でどう考えても慰めの言葉は見つかりませんでした。「こんな残酷ってあるだろうか、やっぱり神様なんていないな」とつくづく絶望した時期でした。

 正直なところ、しばらくの間は気遣ってくれる声掛けにも響くものを感じる事ができず「なぜ私だけがこんな目にあうのだろう。どうしてこのタイミングなのだろうか」という不当感に支配されて、周りとの接触も億劫になっていたと感じています。やがて段々と周囲とも話す事ができるようになると、今度は「あなたにいったい何がわかるのか?」といったようなイライラとした、いわば八つ当たり的なやり場のない感情に気が付きました。もちろん誰のせいでもない事もわかっています。

 こんな風に、怒りや不当感という感情は時として苦痛を紛らわせるための気晴らしになる事があります。怒るという感情に集中することで悲しみや苦痛から注意をそらす事ができるからです。こういった心理から、入院していた先の医療現場のスタッフやお世話をしてくれていた人にこの感情が向けられるというのもよくある話のようです。
 冒頭にも触れたとおり “怒る” という感情はエネルギーが要るため、失意のどん底ではそんな気持ちにもなれないものです。したがって、ある意味で前進しているようにも見えますが、固執してしまうと怒り以外の感情に目を向ける事ができずに、悲しみからの回復を遅らせる原因にもなってしまいます。

 さて、私自身が陥ってしまった不当感についてもう少しお話します。母の初七日を終えて帰宅して翌日に入院となり、回復する事なく旅立ってしまった愛猫ですが、せめて私が帰ってくるまで待っていてくれたのだと考えるようにしました。事実、母が亡くなったあの状況下で、もしも愛猫に何かあったとしても簡単には帰ってこられなかったからです。
 どちらの最期にも立ち会えて見送れたこと、当然のことながら母の死と愛猫のタイミングはそれぞれ独立した別の事象であるということとして混乱した頭の中を整理したのでした。このように良くない出来事が重なって起こったときは、大きな一つの固まりとしてでなく一つ一つに理解を深める事が大切ですね。

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