病気に寄り添う?主役は病気?-目からウロコの「らしく生きる」選択 

 先日、知り合いの告別式に参列したときのお話です。
優しくて明るくて楽しくて、サービス精神が旺盛なその方の周りにはいつも人が集まって笑いに包まれていました。そんな故人の「湿っぽくしないで明るく送ってほしい」という意向を汲んで執り行われた式だったこともあり、こんなに穏やかなお葬式もあるのだなぁと感慨深い気持ちになりました。
友人たちが生前の楽しいエピソードを披露するなど笑いが起こる場面もあったくらいです。

 ご本人が牧師でもあられたことから教会式での葬儀でしたが、故人の個性が尊重された悲壮感だけではない、誰かに話したくなるようなとても心に残る良い式でした。もちろん、亡くなったことに対する悲しみや寂しさは尽きることはありません。しかし、それほどまでにその方が今そこにいるような、一緒になって笑っているのではないか、歌っているのではないかと思える不思議な感覚に包まれた時間が流れていました。
 私は特に信仰する宗教は持っていないのですが、キリスト教の「死は終わりではない」という死生観を少なからず垣間見たその日、信じる者は救われるのかもしれないとも感じました。
その話をイスラム圏に住んでいたことがある友人に伝えたところ、彼女も現地で大家さんのお葬式に訪れた際、娘さんに「すべては神の思し召しです。あなたは何故そんな悲しい顔をしているの?」と、
不思議がられたと話してくれました。

 さて、話は戻りますが、ご家族によると病気の進行具合から最後の数か月はもう治療をしないという選択をされたため、家族と一緒に家で過ごせたとのことでした。
 驚いたのは、最期を家の天井ばかり見つめて過ごすのではなく、本人の念願だった軽井沢に連れて行ってあげたいという思いから、車いすを載せられるレンタカーで一緒に出かけたそうなのです。軽井沢の良い空気を吸って美味しいものを少しでも食べることができて満足そうだったと話してくださいました。そして、その帰宅した翌日に静かに息を引き取ったと。
 愛する人のために何ができるか、何を望んでいるのか最後まで耳を傾けて、素晴らしい判断をされたのだと感動しました。

 果たして、私に同じことができるだろうか!?
ふと、ちょうど3年前の今頃に亡くなった母の最期と比べていました。したくないと言っていた手術を家族で説得して受けさせ、それっきり三ヵ月もの間、口から食べることができなくなったまま、やがて寝たきりになり、最期の1週間は沢山の管につながれたまま意識もなく息を引き取ったのです。
 手術後は「あぁ、美味しいものが食べたい」と、しきりに訴えていた母。何より、手術前に呟いていた「生きたい」という言葉の意味は、あんなふうに管につながれて意識もなくそこに生かされている状態のことではなかったはずです。もっと母の気持ちに寄り添った判断があったのではないか!?
未だ後悔がよぎります。当然ながら、葬儀は悲壮感でいっぱいでした。

 今まで見送った猫たちに対しても、病気が発覚したとたん、そのことばかりに気がいって「これは食べちゃダメだよ」「このお薬を飲ませないと」とか「高いところに上ったら危ないから」など、険しい顔で神経質に制限しては、彼らをどれほどがっかりさせたことだろうか。
 気が付けば、本人とではなく彼らの病気とばかり向き合ってしまっていたのです。良くなる病気なら我慢を強いることも時には必要ですが、結局、あれはいったい誰のためになったのだろうか?

 時には、無理な治療はせず、最期まで美味しいものを食べてその人らしく生きる。或いは、動物らしく生きること。それは、とてつもなく尊いことなんだなとしみじみ感じた一日でした。

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