ペットロスの悲嘆とは、文字通り最愛のペットを失うことによる深い悲しみや苦しみの感情のことをいいます。そして、そのペットロスという言葉が広く知られるようになったのはようやくここ数年ですね。
では、なぜ近年になってペットロスによる悲嘆を訴える人たちが増えてきているのでしょうか。理由の一つには、核家族化が進んでペットが単なる愛玩動物の域を超えて、かけがえのない家族の一員になった事が挙げられます。更に、マンション住まいなどの住宅事情から動物たちも家の中で一緒に暮らすようになり、より身近な存在として人と関わるようになったことなどが考えられます。
その昔、犬は番犬として家の外で飼うのが一般的でしたし、猫はネズミを捕るという役割を担って一緒に暮らしていました。撫でたり愛でたりするというよりは、仕事をする代わりに人間が食事や寝床などの面倒を見るといったギブアンドテイクの関係が色濃いものだったのかもしれませんね。
では、当時の人は動物に対する愛情が今よりも薄かったのでしょうか?
夏目漱石の門下であった小説家の内田百閒(うちだ ひゃっけん)1889年(明治22年) – 1971年(昭和46年)の自身の実話である小説 『ノラや』 を読んで、その疑問は見事に払拭されました。
ひょんなことから庭に居ついた野良猫の子猫にノラと名付けて夫婦で可愛がるようになります。しかし、ある日ノラにさかりがついて庭から出かけて行ったきり帰ってこなくなってしまいました。心配で居てもたってもいられない百閒先生は新聞広告や折込チラシで大捜索します。それでも見つからないのは、もしや日本語がわからない外国人のお宅に保護されているのではないかと、英語のポスターまで作ってしまうのです。
やがて月日が経つにつれ「もう帰ってこないのではないか」「どこかで死んでしまったのかもしれない」と、弱気になり、ノラの身を案じては子供のように号泣する先生ですが、「うちの猫は8か月で帰ってきた」「うちは3年後に帰ってきたので諦めないほうが良い」などチラシの反響や読者からの手紙を励みに気持ちを持ち直します。また、時には藁にもすがる思いで、伝え聞いたおまじないを試したりしながら来る日も来る日も待ち続けるのです。行方不明というのは生死がわからない分、やはり何年経っても諦めきれないものなのですね。
また、ノラが行方不明になってから居つくようになった、どことなくノラ似のクルツと名付けた猫をかわいがる事で幾分気持ちが癒されていたのですが、そのクルツものちに病気になり、毎日往診してもらうなど手厚い看護の甲斐なく旅立ってしまいます。食事も喉を通らず、帰らぬノラや死んでしまったクルツを想っては人目もはばからずに涙する先生の気持ちが痛いほど心に染みて、思わず涙がこみ上げてしまいました。
気難しい事で知られていた明治生まれの百閒先生ですが、戦後間もない時代に発刊された『ノラや』は、猫愛に溢れ、ペットロスの心情を語りつくした心から共感できる1冊です。
「猫ならなんでもいいというわけではない。私はノラとクルツ、この2匹が愛おしくてたまらないの」だ ー 内田百閒『ノラや』中公文庫 ー
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