死と向き合う時間について考える

 生きているものには必ず死が訪れます。それは生きている事の日常の延長線上にあって、終着点でもあり、例外なく誰もが避けられない自然なことです。しかし、誰の身にもやがて訪れることなのに、死別を体験したとき、或いは死が予測される状態においては、なかなか他人がタッチし難い繊細な領域であることも確かです。
 例えば、その状況下にある当事者はもちろん、家族などにも周囲の人はどう声がけしてよいのか戸惑う事が多いのではないでしょうか。特に、ハグなどの非言語コミュニケーション文化のない日本人は言葉に頼らざるを得ないため、なおさら言葉を選ぶことに注力してしまいがちです。
 その結果、どう声をかけてよいのかわからないのでなんとなく避けてしまう。気を遣いすぎて、或いは言葉を選びすぎて本来思っている事が相手に正しく伝わらないなど。

 しかし、当事者になって実感したのですが本当は声をかけてほしいのです。上手い言葉でなくていいのです。言葉が見つからなかったら肩に手を掛けてくれるだけでもいいのです。気にかけてくれている、心の痛みに寄り添おうとしてくれているという気持ちは有難く、励みにもなるからです。

 実は、これほど身近で誰の身にも起こることなのに『死を語る事は縁起でもない事』として、忌み嫌われてしまうのは、日本人の多くが信仰する特定の宗教を持たない人種であるため、死に対する教育を受けてこなかった事も大きな要因なのだと感じています。しかし『死は命の尊さ』を考える事であり『生は限りがあるもの』として、本来は子供のころから学ぶべき重要なテーマなのだと思います。

 私の母はちょうど2年前にガンで亡くなりましたが、最期の2週間は意識もなくコミュニケーションをとることができない状態でした。奇跡でも起きない限り、もう長くはないということは家族の誰もが気付いていました。その時実感したことは大変な状況であればあるほど実は誰かに聞いてもらいたいし、そんな時こそ周囲からの声がけによって張り詰めた心が救われることもあるということです。
 しかし、当時は周囲の対応を逆にどこかよそよそしいと感じていました。さながら『やがて死にゆく末期がんの高齢患者を抱えている家族』に戸惑っているという空気感、つまり根拠のない励ましや期待を持たせてはいけない故の腫れ物に触るような距離感を感じ取ってしまい、とても寂しい気持ちになったことを覚えています。
欲しかったのは励ましでもアドバイスでもないのですが・・・。 

 例えば、患者本人の事に触れなくても、休めているか、食べられているかなど傍にいる家族の体調を気遣う言葉でも救われる気持ちになるものです。とはいえ、今にして思えば、ごく身近な死にゆくものへの接し方に一番戸惑ってオロオロしていたのは自分自身でもありました。母本人に余命を知らせていなかったことから、それこそ根拠のない励ましや期待感を持たせてしまうことへの違和感がやがて罪悪感となり、本人の思い残したことや感じていること、お互いの感謝の気持ちを伝える機会を持たないままの別れとなってしまったことが心残りです。

 死を縁起でもない事として目をそらしていたために、いざ直面した時には突然で唐突な出来事のように感じて狼狽えてしまうのです。愛するペットにも、自分にも周囲の誰の身にもいつか必ず起こる事として、最期の大切な時間とどう向き合うかということを考えてみる機会も必要ですね。

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