「ここ」で「今」を生きている

 以前住んでいた家の窓から、川を挟んだ向かい側に小高い土手が見えていました。ある秋晴れの日の午前中の事です。何気なく外を見ていると1匹の白猫がその土手の中腹にやってきたのを見つけました。しばらくの間、猫が辺りに生えている草や飛んでいる虫などに無邪気にじゃれている姿を遠くから微笑ましく見ていました。猫は、ひとしきり遊ぶと毛づくろいを始め、やがてその場所に丸くなって眠ってしまったようです。 

 午後になり、窓から覗くとまだ同じ場所で寝ています。よっぽどあの場所が気に入ったのかなと思っていました。しかし、肌寒くなってきた夕方になっても動く気配がありません。
 翌朝は雨でした。さすがにもう居ないだろうと思いながら窓から覗くと、その白い塊は昨日と同じ場所で同じ体勢のまま雨に濡れた土手の土の色に染まっていて、遠目にももはや生きていない事を悟りました。 

 一般的に猫は死に際を見せないといわれています。犬と違い単独行動をする猫にとって、病気やケガで弱った身体でいる事は命取りとなるため、天敵から身を守って静かに休める場所を探す事からそういわれているようです。その白猫も死期を悟っていたかはわかりませんが、少なくともかなり状態の悪い身体でたどり着いた場所だったのだと思います。しかし、遠目とは言えその振舞いからとてもこれから死を迎えるようには見えませんでした。

 私も今まで4匹の猫を看取っています。病気であったり老衰であったりと原因は様々ですが、その最期に接して思う事は「動物って、なんて潔いのだろう」という事です。普段は庇護するべき対象である可愛い姿ばかり見せてくれる彼らですが、最期はどんなに苦しい状態であったとしても、堂々と ”生” と向き合って命を全うする様に毎回圧倒されてしまいます。それは、彼らが楽しい時間も苦しい時間もシンプルに「ここ」で「今」を生きているからだと思うのです。

 そして、学ぶべき事も多く、死ぬ時はみんな独りなんだなと思い知らされる瞬間でもあります。願わくば自分もあんな風に潔く終わりたいと思うのですが、その時が来たらきっと恐れて狼狽えてしまう気がしています。

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